2022年で創業16年目を迎えるアンダーワークス。この数年でメンバーは倍以上に増え、コンサルティングのプロジェクトも幅が広がっています。そんな中、アンダーワークスが創業当初から変わらず掲げてきたビジョンが「想像を超えた未来」。ここには、一体どのような想いや未来が込められているのでしょうか?
前半では、代表取締役社長の田島に、「なぜアンダーワークスを創業したのか?」と、そこまでの経緯を聞いてみました。アンダーワークスや、代表田島の価値観が垣間見える本記事、ぜひご覧ください!
競争心にモチベートされ、戦略を描いた幼少期
−−はじめに、少し遡りますが、田島さんの幼少期について教えてください。
生まれは都内の練馬区ですが、転勤族だったので、幼少期は新潟や福島あたりにも住んでいました。その後も埼玉や東京にいて、大学に入るまでは海外には行ったこともなく、ドメスティックな環境で育ちました。
10代の頃から、負けたくないという思いがいつもあって、競争心が強かったことを覚えています。なぜかはわからないんですが(笑)なので、勝ち負けの分かるスポーツや勉強に集中して励みました。試験勉強一つをとっても、この範囲は捨ててここに集中して……など、戦略を考えて実現するのが気持ち良くて。そういった面は、今も変わっていないですね。スポーツは、中学ではバスケ、高校ではボートで競っていました。
−−その競争心は、学生時代も続いていたのでしょうか。
附属校から大学に入ると、逆に競争環境がなくなりました。周りも遊びやサークルなどに流れていく中で、改めて自分が何をやりたいのかを考えると、わからなくなったんですね。退学まで考えていたときに、どうせ辞めるのなら外の世界を見てからにしたら?と、母が言ってくれました。それで、夏にアメリカのカリフォルニアに行ったんです。そこで世界が大きく変わりましたね。
アメリカで日本のマーケティングを知り、コンサルタントへ
−−初めての海外、アメリカでのエピソードを教えてください。
印象的だったのは、働き方の違いです。自分の生活では、父が夜中まで帰ってこないことが当然でしたが、アメリカのとある家では、父親は夕方に車で帰宅し、夜ご飯を家族で食べることを知りました。ルールに縛られず自由に働きながら、競争で勝てば大きなチャンスを手にできる。そんな環境があるアメリカで働いてみたいとも思いました。
それから、夏と冬には海外に行くようになりました。カリフォルニアの次は東海岸に行ってみたり、東南アジアの方ではバックパッカーをして、シンガポールからバンコクに渡って……当時、沢木耕太郎の「深夜特急」に影響を受けたのもありましたね。アメリカに住みたい思いも強くあったので、大学3年生の頃に、負担も少ない交換留学に行きました。プログラム自体は一年だったけど、結局一年半くらいいて。ここで、マーケティングというものに出会ったんです。
−−アメリカの大学でマーケティングを専攻したんですか?
日本では政治経済学部でしたが、南カリフォルニア大学ではマーケティングを専攻してみたんです。ハリウッドが近く、映画学部が有名なところでした。マーケティングと映画学部でチームを作り、課題のCM制作にロケハンから取り組むなど、刺激の多い環境で学びました。
ある講義で、世の中の名作とされるCMが紹介され、その中に日清のカップヌードルのCMが出てきたことがありました。商品そのものの訴求ではなくメッセージ性が評価されたCMでしたが、こういう日本企業のマーケティング施策が世界で評価されていることに衝撃を受けたんです。そこで、マーケティングに関わりたいと思ったことが今に繋がっています。1996年頃の当時、インターネットがまさに広まってきたタイミングでもありました。
アクセンチュアで出会ったデジタル事業と、激動の20代
−−卒業後は、日本でコンサルティング会社に就職されたと伺いました。
帰国後は、現在のアクセンチュアである、アンダーセンに就職しました。コンサ ルという仕事は企業ビジネス変革を担ったり、マーケティング的な要素が強いと思っていたのが大きな理由です。面白そうな人が集まっていたし、世界的な規模も当時から大きかったので、グローバル視点でマーケティングを考えることができそうとも思いました。
ですが、入社後は、マーケティングやビジネスに関わるよりも、SIerとしての側面を強く感じました。入社1日目にC言語を覚えてプログラミングをするなどの研修を受けるんです。文系だったので、テクノロジーやコンピュータは触ったこともなく苦手意識があったけど、そこで叩き込まれたことが、意図せずも今のベースになっていると思います。
−−当時はどういった仕事に関わっていたんですか?
同期のほとんどは業務システムや基幹システムの改革など、いわゆるアクセンチュア的な仕事に関わっていたんですが、たまたま僕だけ、グローバルのECサイト実装のプロジェクトに関わることになって、そこでインターネットやテクノロジーの可能性を大きく感じました。そのプロジェクトが終わった後、もっとデジタル事業に深く関わりたいと思い退職したんです。当時、ソフトバンクなどを筆頭にインターネット業界のベンチャー企業が伸び始めてきて、外に興味が湧いていたんですよね。
その後に飛び込んだベンチャー企業は潰れたんですが(笑)やっぱり負けず嫌いなので、逆転を狙って最後の最後まで粘ったり……でも生活できなくなったので、アクセンチュアの子会社に戻り、海外の最先端テクノロジーを日本に持ってくるなどしながら、アメリカや韓国を飛び回っていました。今、アンダーワークスで手がけているグローバルテクノロジーの再販事業のベースは、この時に身に付けたものです。
時代のトレンドと共に、戦略から実行までを支えるアンダーワークスへ
−−コンサルタントのキャリアを積んだ後も、激動のビジネスライフを送っていたんですね。その後、アンダーワークス創業にいたるまでにどんな経緯があったんですか?
その後、色々とリセットしようと世界中でバックパッカーなどをして、帰国後はフリーランスとしてインターネット関係の仕事をしていました。Web制作会社から仕事をもらうなどする中で、一つのWebサイトを作るにしても、そもそもターゲットは誰なのか、何を訴求すべきかという戦略の重要性を身を持って感じました。これからのWeb制作は、デザインではなく「マーケティング」の戦略を基点にすべきで、上流フェーズから関われる人のニーズを感じていたし、それを実行するとお客さんにもすごく喜ばれたんです。
そうする中で、クライアントにもツールベンダーにも中立な立場で、儲けることよりもクライアントの本質的な課題を解決するために、自分が描いた戦略を実現したいと思い、当時の仲間と会社を立ち上げました。ちょうど30歳になったときでした。それが、アンダーワークスの始まりです。
−−そうして、2006年にアンダーワークスが創業されたんですね。
創業当初はメンバーも10名ほど。3年ほど経つとクライアントも付いてきていただけるようになりましたが、戦略フェーズにのみ関わることが多かったです。当時はクラウドやSaaSのサービスもなく、実行フェーズも支援するとなると、SIerに頼むしかなかったんです。でも、2010年頃に、スマホや3G、SNSが出てきて、東日本大震災をきっかけにTwitterなどが流行し、今後はビジネスにどうスマホを活用していくかといった話も出てくるようになりました。
2014年頃にはクラウドがトレンドになり、業態が変わる転機になりました。そういったトレンドの流れと共に、クライアントのデジタルビジネスの課題に対して戦略から実行まで支援する、今のアンダーワークスのビジネスに変化を遂げてきました。